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29 October

smt


銀座ミキモトをみるとトッズを設計した建築家のデザインであることが容易にわかるが、せんだいメディアテーク(smt)からこのデザインまでの思いもよらない展開は、生物用語でいう“変態”といえるほどに劇的だ。シルバーハットからの流れがsmtで決着がつき、はれて自由の身になった建築家の思想は何の束縛も感じない、おおらかなデザインに反映されている。最近では中野本町の住宅でみせた側面すらも垣間見ることができる。そんな大河のような建築形態に変化のなかにあってsmtのコンセプトモデルは、現在までのGA internationalの表紙のなかで一番センセーショナルなものといっていいだろう。伊東豊雄の漠然としたイメージと模型デザイナーの解釈によってその奇跡的な形態はうまれた。しかし、定禅寺通のsmtは実現しただけでも十分意義はあるのだが、あのコンセプトモデルを踏襲しているとはいえない別の建築に生まれ変わっていた。あれだけ開放的につくられた施設なのに“向こう側”が見えない使い方をしている為だ、せっかくの奇跡的な形態が表層建築的に運営されてしまっている。 谷口吉生なら、一言「向こう側が見えるよう間仕切るように」と注文をつけることだろう。そんな自由な運営形態を許容しているところに伊東建築のおおらかさを感じ取ることができる。しかし現代版さざえ堂のような建築はそれでも十分におつりがくるくらいに刺激的な建築だ。
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28 October

一見すべきよし


蝉の声が岩にしみ入ったあとに 訪れたので、独特なサウンドスケープを体験するまでには至らなかったが、それでも雨上がりの登山道は十分な雰囲気を漂わせていた。まさに“一見すべきよし”である。自然の地形と人がつくりだした造形の数々が一体となって、なにか特別な空間をみごとにつくりあげている。 “登る”という行為が何かのプロセス(儀式)のように感じられて、そしてそれが疲労としてすぐに表れる。景色の変化は多彩で本能的に気持ちが上を向く、みごとなアプローチ(?)空間にしてバリアフリーを超越した空間といえる。地下鉄の通路もここまで劇的にしたらどうだろうかと夢想するが、人が大勢いたら風情もなくなってしまうのだろう。地下鉄だけでなく、アプローチ空間が設備化された現代では、こういった空間を新規につくりあげることが可能なのだろうかと考えるが、わざとらしい空間になってしまうことは想像できる。空間を見い出すことはむずかしい。大昔の日本といえども美的体験が筋肉を動かす体験と深くかかわっていることを慈覚大師は確信していたに違い無いだろう。同時に、教義にとらわれず即物的な目で合理的、機能的な思想を持っていたと推理できる。
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27 October

山寺へ


日本の仏教界の二大巨頭にしてライバル関係でもあった空海と最澄は同じ804年の第18回遣唐使節であった。そのつぎの回の第19回遣唐使節のなかに最澄の弟子である円仁というお坊さんがいて、山東省の五台山なんどで修行し、9年後に帰国した。最澄亡きあと比叡山延暦寺の座主となり、没後その業績を称えられ866年に慈覚大師の諡号を授けられた人物で、円仁が関東以北に開山した寺は10を超える。(どれも名所である)そのなかのひとつに山寺の別称をもつ立石寺がある。芭蕉の有名な句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が詠まれた舞台だ。
鎌倉時代よりも前の時代の仏教は難解でサッパリなのだが、教主のもつ優れた芸術の才能、美意識に直面すると教義の伝承者というよりは総合芸術家(建築、土木も含む)としての印象が強い。現代の芸術がジャンル化されて各々に専門家があってという図式が当たり前のようになっているがゆえに、総合的でもあり、超人的でもある。(そう考えるとイサム・ノグチの功績は驚嘆に値する)どうにも“仏教”“寺”という言葉が大きすぎて目にみえる即物的な印象(美的印象)がつかみずらくなっていることは前々から意識していた。それではスカルプチャー、アーキテクチャー、ランドスケープ、アプローチなどに変換してしまうのも悪くない。すべての芸術(あるいはデザイン)に時間という要素を摩滅して同一線上に並べて見てみたいと思うのは私だけではないだろう。
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26 October

Stunned Man


複数の芸術家作品をあつかった展覧会は展示空間が軟弱だとカタログ的に見えてしまったりするので、あまりいい印象がない。 「Stunned Man/Julian Rosefeldt」は BankART Studio NYKの会場にいるひとたちを釘付けにするほどにインパクトのある作品であった。壁面に投影された二つの映像は、あるアパルトマンの断面をアングルを振り子のように左右にたえず動かし二つの異なったシーンを同時に映し出すという映像作品だ。説明では日常のなかに潜む狂気をドイツのカンフースターが演じている、ということらしい。現代アートの映像作品に希にみられる映像の綻びは微塵もなくクオリティーが良い。カンフースターの動きと大袈裟な音は、映画のワンシーンを延々と見ているようで退屈にならない。壁面に映し出された映像の結末に期待しつつ微かに変化、ループしていく世界に徐々に引込まれていくのだが、そうなると次第に映像のなかにあるモノ(ディテール)にいちいち目がいってしまって、どういうわけかヨーロッパのアパルトマンあるいはライフスタイルみたいなところを注意深く観察しているのだ。作品の世界とは見当違い方向に自分が向かっていることに気付きつつ、見入っていた。これも作品の見方のひとつなのではと今さらながら思うと、もう一度じっくり見てみたくなるのであった。
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25 October

Stephan Balkenhol


ひとをモデルにした彫刻から受ける生命感や人格めいたものは、彫刻の動的かつ写実的なところからくるものだとばかり思っていた。だから自然と運慶の彫刻を尺度にして見てしまったりする。
スタンプ集めの軽い気持ちで見た「シュテファン・バルケンホール/木の彫刻とレリーフ」の作品は自分の中の視点(クセ)を、気持ちよくくつがえしてくれた。一木造りのひとの背丈ほどもある作品が空間に点在されているが造形された部分はその五分の一程度しかないので、驚く程小さい。しかも作品の大きさに関係なくノミの痕がはっきりと残るほど荒く削られている。精密に彫られてこそ、生命感をかもし出すものだとばかり思っていたのだが、荒削りのバルケンホールの彫刻は、電車の座席の向かい側のひとのように、“日常的に目にする他人”を生々しく表現しているようである。彫刻だけにじっくりと見れる。しかも、作品の大きさは“木彫りの人形”(フィギュア)そのものであるが、まったくそういった印象はない。その小ささにもかかわらず展示空間に無駄はなく、穏やかに支配されたアート空間は不思議と心地が良い。
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