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31 January

飛白


西安碑林にて「蘭亭序/王羲之」「顔勤禮碑/顔真卿」の拓本を手に入れ満足していたのだが、「昇仙太子碑額/則天武后」を見て今さらながら後悔している。碑額の“デアルカッ!”とした飛白体に心を奪われてしまった。碑額部分だけでなくその下に控える碑文も王羲之の書体にさらに躍動感が加わり武后のひととなりがにじみ出ているようで展示された拓本の前で想像力が広がる。王羲之の保存鑑賞者として功績は“狂草”の先駆となとなったわけで、その凄まじいエネルギーを大いに感じることができた。
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25 January

虎の子渡し


「minimum/john Pawson」には龍安寺方丈前庭の鳥瞰写真を見ることができる。非常にめずらしいアングルの写真で襖の字の色(鳥の子色)と質感(白砂)を活かしたような一枚の襖絵のような写真だ。
虎の子渡しのごとく方丈を行ったり来たりして眺めながらこの石庭から何かを得ようなどとちょっとでも考えた自分がばからしく思った。見ているだけで良いではないかと。だれが作庭したのかはわからないけれども人間が創り出したものには違いなくその事実に自然見るのと同じような神秘性を感じていた。アングルによってオートフォーカスが麻痺し奥行きの土塀がぼやけ不思議な写真に仕上がる。テクノロジーが手玉に取られているような感覚が心地良い。
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24 January

動の坐禅


退蔵院にいる。前日の雨が大気中の塵を洗い流したせいか空は澄んでいる。そのせいか地面は打水をしたような塩梅でなんとも清々しかった。手入れの行きとどいた方丈の庭園を見ていると日常の作務までもが見えてきて枯山水が“動の坐禅”によって現在まで維持されていることがよくわかる。禅風を考えれば見せるための手入れがされているわけではないが、それを見ているという状況に贅沢な気分を味わっていた。
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23 January

雨雲


自然の美と同等あるいはそれ以上のものを生み出すことを本能的(あるいは無意識)に求めているのが芸術家ではないかと常日頃思っている。すぐれた芸術作品にそのような一面を垣間見ることができるからである。そういった作品は至極平明で見ているだけで心持ちが良くなってくる。
樂美術館にて「村雲/本阿弥光悦」「光悦雨雲写/六代目左入」を見た。たったひとつの樂茶碗に自然界の雄大な美が封じ込められているのだ。ただひたすらに見とれていた。そして先日「雨雲/本阿弥光悦」を見た。樂美術館での余韻が残っているうちに見れたことが幸運であった。
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18 January

雲龍図


歩きながら眺めているとパースペクティブが麻痺されていくのがわかる。宇宙(空間)的といえばいいのだろうか空間の制約から開放された気分だ。妙心寺七堂伽藍のひとつ法堂の天井にはみごとな雲龍図が描かれている。天井に描かれていることと天井画自体に天地がないため上下左右の感覚が薄れていく。それが見る角度による絵の印象なのかそれとも空間の印象なのかなんとも曖昧で天井の龍から天に昇らせ地上にせまるような動きが生まれるのだ。
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